若僧より一言 |
【拾七言目】
毎日80、毎年3万のペースを11年更新している社会現象と言えば?
のべ30万を超えるこの現象は、自らその生涯を終わらせた方の数です。わずか11年で、西光寺が所在する青葉区(横浜市:平成21年6月の推計で人口30万人)のすべての住人が消えた、と考えると問題の深刻さがイメージしやすいでしょうか。
この世を去る選択をした本人と遺族に、つい私たちは「心が弱かったから」「こうなる前に家族で解決できた」などと断じてしまいがちです。確かにこのような見方もできるのですが、「どんな悩みや苦しみを故人は抱えていたのか?」「どれほどの苦しみを遺族は背負っていくのか」という視点は欠けてしまっています。
「もし言い出しにくい悩みを抱えてしまったら?」その時のためのお寺です。どうか遠慮なくご連絡ください。
【拾六言目】
首都高速道路 中央環状線の五色桜大橋(台東区)には、世界が注目する技術 振動発電が施されています。ライトアップや夜間の照明に使う電力を、橋を渡る車の振動でつくるんですって。
「車が走るだけで発電?」夢物語にも聞こえますが、ウソのようなホントの話。しかも、首都高全線に振動発電を施した場合、東京都一日分の電力をまかなえる、なんて試算もあるのだとか。聞けば聞くほど現実から離れていくような。
スピーカーから音が出る仕組みは、電気でスピーカーの振動板を動かす→振動した空気が鼓膜にとどく→音として聞こえる、というものです。
「電気→振動・音が成り立つのだから、逆の仕組みもありでしょう」という発想がもとで、振動を効率良く電気に変える材料の研究がすすみ、めでたく実用かなった次第。
開発に携わった研究者にとって、トラック、電車、飛行機などの振動や騒音は、電気を生みだすエネルギーそのもの。そんな了見だからか、電車が揺れても「今の振動はもったいない」なんて。
愚痴や不満といった心の振動を明るい笑顔で元気に変える。こんな心持でいたいものですねぇ。
【拾五言目】
明治後半、大正、昭和の戦争前にかけて活躍された小林正盛(こばやし しょうせい:1876〜1937)というお坊さんに夢中です。
先生は茨城県古河市に生を受け、地元のお寺で得度(僧侶の初めの一歩を踏み出すことです)をされ、天引きの寺院で修行、東京の大学を卒業されて以降、執筆活動に勤しまれました。それでいながら、30代で豊山中学の校長先生に就任したり、総本山 長谷寺の住職に就任したり。
かなりの時間、宗派の重責を担いつつ、最前線で檀信徒の教化にあたっておられました。
早くから才能を発揮して、全国津々浦々で仏の教えを親しみやすく説き明かしていましたが、積年の疲れからか病に倒れます。一度は持ち直し、多くの仲間やお弟子さん、お檀家さんや信者さんを喜ばせました。
快復してからも自身を厭わず一層盛んに動かれたこともあり、老若男女、僧俗を問わない先生を慕う仲間に支えられつつ、62年の生涯を駆け抜けました。
先生ご自身が筆まめで、多くの信者さんがいたことも手伝って、当時の事細かな記録が史料として残されていました。
たまたま手にとった80年前の記録を興味半分で読んでいるうち、すっかり小林先生にハマった次第。以来、ご縁のありそうな方に「どんなことでも覚えていたら教えてください」なんて取材をアチコチで敢行……その甲斐あって、直系のお身内が四国のお寺でご健在と分かりました(実は1/23にお会いするんです!)。
おぼろげな記憶に残る老僧を何故か知っている関東の若僧……四国のご住職との不思議なつながりも、当時の記録があったからです。
文字は人と人を結び時代を越えます。いま手元にある日記やハガキを大事にとっておくと、面白いことが起きるかもしれません。
【拾四言目】
『天才バカボン』『おそ松くん』、「これで良いのだ」「シェー」などの漫画やギャグで一世を風靡した赤塚不二夫さん(漫画家:1935〜2008)の告別式が8/7に執り行われました。著名人が多く参列するなかで、長く親交のあったタモリさん(お笑いタレント:1945〜)は、予めしたためていた8分間もの弔辞を淀みなく捧げられました。
いち早く才能を認め世に送り出してくれた故人への想い、心のこもった感謝の言葉は聞く者の胸を打ちました。以下は、その全文です。
「8月の2日に、あなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが、回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは私達世代に強烈に受け入れられました。
10代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れましたその時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私をみている。この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。
終わって私のとこにやってきたあなたは『君は面白い。お笑いの世界に入れ8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから私のマンションにいろ』と、こういいました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。
しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタをつくりながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、未だに私に金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。
赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。マージャンをするときも相手の振り込みで上がると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたがマージャンで勝ったところをみたことがありませんその裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折みせるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀のときに、大きく笑いながらも目からぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をピシャリと叩いては『このやろう逝きやがった』とまた高笑いしながら、大きな涙を流してました。あなたはギャグによって物事を無化して(記載は動かして:無化してが正しいらしい)いったのです。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい意味(記載は陰:意味が正しいらしい)の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。
いま、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い出されています。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外でのあの珍道中。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。最後になったのが京都五山の送り火です。あのときのあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたは今この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところから、あぐらをかいて、肘をつき、ニコニコと眺めていることでしょう。そして私に『お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ』と言っているに違いありません。あなたにとって、死も一つのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞があなたへのものとは夢想だにしませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言うときに漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生本当にお世話になりました。ありがとうございました。
私もあなたの数多くの作品の一つです。
合掌。
平成20年8月7日、森田一義」
後日、読んでいるようにみえた弔辞が実は白紙だったことがわかりました。恩人を送る別れの席で、なぜタモリさんは何も書かれていない弔辞を広げ『勧進帳』の弁慶を真似たのか。
「赤塚さんならギャグでいこう」と考え、白紙の弔辞と勧進帳、義経一行の関所通過を許した富樫左衛門と自身のマネージャー(名前が「トガシ」)をかけていたのだとか。これが分かり合える感覚と深いお付き合いに、羨ましさすら覚える方も多いことでしょう。
お互いの気心を知っていればこその手向けには、形式ばった格好付けはいらないんですねぇ。相手の嫌がることをせず喜ぶことをするだけをお腹に据えて、思うままのご供養をしたいものです。
【拾参言目】
チベット人をはじめ人権を侵害されている方の心身が安らかになり、平穏な日々が全ての方に訪れますようお祈り申しあげます。
住職就任10周年によせて6/22に『大山詣り』(神奈川県伊勢原市)をしました。
←大満足の昼食は、豆腐料理『しもやま』
大山といえば豆腐料理のメッカですが、「なんで豆腐が名物なワケ?」なんて無邪気な疑問を、かねてから。
今回のお参りで伺ったお話しによると、清らかで豊かな湧き水が美味しい豆腐づくりを支えたことと、大山に根付いていた山岳修行にある食事制限(精進料理の原点)が、お山と豆腐を結んだと考えられるのだそうな。
ご先祖さまは、ずっと前からお天道さまや御山、海や川など身の回りの自然へ手を合わせていました。そうして発展していった神道に、仏教や道教などが仲良く交ぜこぜになり、今日に伝わる山岳信仰になったとか。
正式参拝を終えた阿夫利神社本殿で、参加者一同と『般若心経』を唱えました。事前にお願いしていたこととはいえ、仏教徒がお勤めをはじめても、少しもたじろぐことなくそれを受け入れるようなお宮さんの姿勢は格好よかった。違う宗教を許せる懐の深さを目の当たりにしたようでネ。
すべての争いは、『自分と違うこと』がその理由になっているように思えてなりません。宗教、言語、肌の色、価値観、生活レベル、趣味趣向……。目の前にいる方とは違う人間なのだから、違って当たり前だとは頭のどこかで理解している筈なのですが、このことをスッカリ忘れて少しばかりのことで気持ちを荒立たせてしまいます。
多くの生き物が住まう御山のように、違いを許せる大きな度量をいつかは身に付けたいものと。
【拾弐言目】
この度のチベットにおける騒動で、犠牲となった方の心身が安らかになり、平穏な日々が全ての方に訪れますようお祈り申しあげます。
「チベット人は独自の文化や歴史を有している。もともと独立国だ」「穏やかな暮らしを謂れのない暴力で一方的に破壊された」「チベット人は、昔も今も酷いに目に合っている」などが、チベット人やチベット文化を守る方の言い分でしょうか。
「昔から中国の一部だ」「歴代法王による圧政を改革し、民衆を解放した」「鉄道の敷設や道路整備をはじめとした今日の経済発展は中国が行った」などが中国側の言い分でしょうか。
その他にも「もしチベット人が独立を果たせたとしたら、それを皮切りにモンゴル・ウィグル・台湾人などの独立にもつながりかねない。中国は半分近くの領土を失ってしまう」「漢民族以外の民族がそれぞれ独立したときには、中国国内の混乱は必至。隣国の韓国、北朝鮮はおろか我が国も巻き込まれかねない」などの見方もあるようです。
ダライ・ラマ法王の仏さまの教えをふまえたご発言は、「非暴力」「話し合いによる解決」です。暴力を暴力で押さえ込めたとしても、それはさらなる暴力と悲劇を生み出すことに他ならず、何の解決にもならないことを見通していらっしゃるのでしょう。
チベットにまつわる一連の報道は、平穏な暮らしを送る私たちにとって、まさに遠い国の話で、まるで他人事のように受け止めてしまいがちです。
非暴力から連想される、不殺生(むやみに殺めてはいけない)を考える機会です。自らと同じように他人も大切にする「不殺生」の教えを心がけつつ、私たちが出来ることを考えったいものです。
平和の祭典であるはずの北京五輪が、無事に終わりますように。
【拾壱言目】
縄文人の平均寿命は31歳前後と推測されるそうな。30年ちょいということは、出産を15歳かそこいらで済ませ、ボチボチ子育て。そうこうしてるうちにオサラバ…ぐらいの人生となりますかネ。
「男性79歳、女性85,81歳」(厚生労働省発表 平成18年度)などと平均寿命を見聞きしているからか、「31年じゃ短すぎる」「それじゃ人生楽しめない」なんて言いたくもなります。
動物の平均寿命を試算するときの心周期(心臓がドキンと1回打つのにかかる時間)を用いてヒトの寿命を計算すると、26.3年になるそうな。この値は野生動物として人類が生活した場合の寿命ですから、31年よりも短くなる。ということは、縄文人もそれなりの暮らしを送っていたんだと考えることもできますか。
人類誕生の頃の26.3年と平成18年の80年を並べて「どちらも人類の平均寿命ですけど」なんて言われても、差が在り過ぎてボンヤリしてしまいますが、当時と現在の暮らし向きを比べてみれば、その違いにも納得の筈です。
飢えと隣り合わせだった狩猟の日々が、豊富な食材に囲まれ空腹知らず。そのうえ医療の発達で多くの病気を克服し、治安維持や生活保障がそれなりに整えられている…寿命が延びる筈です。
多くの方がヒトとしての命を全うしながら生き長らえている今日。せめて動物としての寿命を超えた暁には、人間らしい生活をしたいものです。
動物と人間の違いは、食前・食後に「いただきます」と「ごちそうさま」ができるかどうか。
自然の恵みと万人の恩をなるたけ感じて、人間らしく寿命を全うしたいものです。
【拾言目】
この夏の第89回全国高校野球選手権大会では、愛工大名電(愛知)の柴田章吾投手に注目していました。というのも、ベーチェット病(臓器や神経が潰瘍や炎症に侵され失明することもある難病)を抱えているのに、リリーフ投手として堂々の成績で地区大会を勝ち抜き、夢に見た甲子園出場を果たしたからです。
中学3年の春に、お腹の内が火傷をしたような痛みに突然みまわれました。追い討ちをかける、主治医の「野球を続けるのは難しい」という言葉や65`から45`に痩せ細った身体。何度も野球をやめようと考えたといいます。そんな柴田選手を奮い立たせたのは、「同じ病気で苦しむ人に勇気を与えたい」「両親の笑顔が見たい」という目標でした。
治療に専念した甲斐もあって、何種類もの薬を飲みつつですが、キツイ野球部の練習をこなせるまでに回復しました。
その頃ふと、両親や周りの方が何時でも支えてくれていることに気付いた柴田選手は、帽子のひさしの裏に「恩返し」「みんなのおかげ」などと書いて、感謝の気持ちを力にかえて一層の努力を続けました。
「万恩に生かされている己が身の せめて一恩を報ぜん」。何時でもニッコリ笑顔を浮かべ、支えてくれた恩に少しでも報いたいものです。
【九言目】
このほど導入された新しい新幹線の N700系。
「東京―大阪間を2時間25分で結びます」と耳にしたので、よほどの時間短縮に成功したのかと思いきや、5分ですって。
「なんだソレッぽっち」と思わなくもないのですが、それは“1駅停車すると5分かかる”という業界でのこと。まして正確な過密ダイヤを維持しつつ、品川駅をはじめ停車駅増加、するなかでの短縮ですから、驚くべき進歩と考えるべきでしょう。
昭和40年の開業当初は、東京―大阪間を4時間(ひかり号)で結んでいた初代の0系新幹線
とN700系を比べると、最高速度は50q増しの時速270q、消費電力は最大で49%低減、デッキで普通に携帯電話で話せるほどの防音を確保するなど、別の乗り物のような進歩です。
にもかかわらず、「新幹線は従来の技術の積み重ねで、新しい技術は何ひとつない」と、全ての関係者が語るといいます。
ご先祖さんの生活の積み重ねにある私たち。確かに暮らしぶりは便利で快適になりましたが、それは道具が進歩しただけのハナシ。
私たちの心は、道具の進歩に追いついていますかねぇ?
【八言目】
筋ジストロフィー(進行性筋萎縮症:遺伝子異常により全身の筋肉が徐々に萎縮する。現在でも治療できない)の小児患者だった相京信勝さんが、昭和48年5月11日に詠んだ一篇の詩を紹介します。
二本の足
ぼくは歩けない
だけど悲しいとは思いません
それは努力という名の右足と
心という名の左足を
見つけたからです
心という足は人間に
考えることを教えました
努力という足は人間にすすんで仕事にとりくむ
よろこびを与えました
ほんとうの人間になるため
この二本の足で歩いていきます
全身の筋力が衰え力がこもらない手で、おそらくはベッドに寝たまま、つづられた詩です。にもかかわらず、言葉から伝わってくるのは死への恐怖ではなく、前向きな強い意志です。
今も難病に苦しむ多くの方がいます。世界には、生活のなかに飢えや戦乱が現実のものとしてある方がいます。
元気や勇気を奮い立たせるきっかけを、私たちはすでに持っています。
「恵まれている」と自覚する胸のうちに、それはあります。
【七言目】
100年近くも前の技術がそのまま使われ続けてきたスピーカー。このほど革新的な技術開発がなされ、平面スピーカー(株式会社FPS 代表 堀昌司氏)が物凄い勢いで普及しているようです。
すでに衆議院本会議場、甲子園球場、日産自動車にアメリカ合衆国のホワイトハウスなどで使用が始まっています。
まさに世界中が待ち望んだ夢の技術だったんでしょうねぇ。
平面スピーカーで自動車100台の騒音を10台分にすることも可能だそうな。
正反対の音波を重ね合わせる(「ブーン」という音に「ンーブ」という音を合わせるんでしょうか)と、音量は減少へと向かう。
従来のものでは、騒音と正反対の音を出力できなかったそうですが、平面スピーカーは、正反対の騒音の出力に成功。その結果、9割の騒音を減らせることが実証されました。
「東名高速でも富士山を見ることができる」とは、堀氏の弁。騒音と正反対の音をスピーカーで道路中に流して、道路を覆う遮音壁ともオサラバ、なんてことが近いうちに来ると楽しいですよねぇ。
それにつけても、音を消すために違う音を出す方が、周りをぐるりと覆うよりも効果的とは知りませんでした。しかも何だか私たちにも当てはまるような気がしてネ、面白いのですョ。
「誰よりも自分が可愛い」「一回きりの人生だから、せいぜい楽しみたい」。それには、自身と同じように他人さまを大切にするほうが効率的かも知れません。
スピーカーの話しじゃありませんが、他人様を思う気持ちを一杯にすることで、心をぐるりと覆うわだかまりがスカッと晴れて、パーッと視野が開けてくれるような。
【六言目】
♪ア〜やんなっちゃった、ア〜驚いた♪の牧伸二さん(1934年生れ 芸暦46年)が、平成14年の5月26日に脳内出血で倒れて入院と報道されました。幸い大事に至らず、驚くほど早く現場へ復帰されたとのこと。最近ご縁がなくて牧さんの芸を目の当たりにしませんが、いつものご陽気な♪ア〜やんなっちゃった…♪で観客を沸かせているんでしょう。
「病気らしい病気をしてなかった」という牧さんだけに、初めての闘病生活も「初体験といえば…」という格好のネタ。
「稽古中に〔頭の中へス〜ッと熱いものが流れてきたな〕と思ったら、左半身がしびれてきて…」と始まり、きれいな女性看護士さんの親切な看護の様子等などを軽い調子て語り進める。本来は聞いていてツライ闘病生活をユーモアたっぷりに聞かせてくれます。
このネタは
「健康なときに健康への感謝はしないもの。普通に歩ける・普通に食べられる・普通に歌える…。〔普通に何でも出来ることへの感謝を忘れちゃいけない〕と思いましたょ〜。」
と結ばれます。(この後おまちかね♪ア〜やんなっちゃった♪です)
牧さんの言葉を借りれば、この『西光寺便り』もワタシが健康だからお届けできるし、皆様も健康だからお読み頂くことができるということになります。その健康は両親からの授かりものなんでしたよね。
両親も、両親・ご先祖さんから健康を授かり、両親の両親も、両親・ご先祖さんから…。「20代さかのぼれば100万人を越す」(『生命のバトン』あいだみつを)というほどの多くの生命が誰もに直接関わっていて、1つでも欠けたら誰もが存在していない…。なんだか話が大きくなってきました。
こんなことを考えていたからでしょうか。
「なんだか頭の中がボ〜ッとしてきたんですけど…」
【五言目】
第88回全国高校野球選手権大会の決勝戦は、3連覇を目指す駒大苫小牧と初制覇を遂げたい早稲田実業。両校の悲願をかけた熱戦は、37年ぶりの引き分け再試合となり、早実の初優勝で幕を閉じました。
ハンカチ王子斎藤佑樹投手と北の怪物田中将大投手の熱投はもとより、両チームのひたむきな姿に思わず目頭を熱くしました。
閉会のセレモニーも終えた甲子園球場で、珍しいことが起きました。観客席がまばらになった頃、グラウンドに再び姿を現した駒大の選手が田中投手を胴上げしたのです。殆どの敗戦チームが甲子園の土を持ち帰るのに、駒大は胴上げ?
早実に敗れたとはいえ全力を出し切れた。自身を晴れがましくも思う駒大ナインの心持ちが、エースを胴上げさせたのかもしれません。
仏教は「今日という日は2度と来ない」、「この世での役割もいつか必ず終わる」と説きます。いずれ幕を引くんであれば、全力を出し切って晴れやかな気持ちで、といきたいところですよねぇ。
夏の甲子園に全力を傾けた全国の高校球児に習い、一度しかない今日をアツク暮らしますか!
【四言目】
大人びた仕草で携帯電話をいじる子供の姿を、しばしば見かけるようになりました。新聞・テレビなどで耳障りな報道を連日のように見聞きすれば、我が子を守るために電話の一つも持たせたくなります。物騒な巷間なればこその成り行きといえるでしょうか。 携帯電話で電車の切符のみならず、お弁当の類までもが購入できることに驚いていたその脇を、手馴れた様子で携帯電話を取り扱ってレジを済ませた子供をみてヘンに納得してしまったことがあります。 |
呑み助が「今日から1年のあいだ酒はやめた」と酒断ちしたところへ、呑み仲間が誘いに来る。酒断ちの話を聞かされ「2年のあいだ1日置きに呑んだらいいじゃねえか」と提案。それに答えて「…だったら3年よして毎日呑むことにすらぁ」とは、落語のマクラ(前置きの話)でよく語られる話。 こんな川柳があるぐらいですから、同じようなことが日々の暮らしにもあるんでしょう。 「ダイエット いま食べてるのは 明日の分」 (身に覚えがある?ワタシもです) 3年前から毎月6回の護摩焚きを続けています。本尊さんや昔のお坊さまがた、戦争で命を落とされた兵隊さん達のご縁の日に合わせて(5日・8日・12日・15日・21日・28日)、祈りやらお詫びやら様々な思いを込めつつ、なんとか穴を空けずにきています。 「縁日じゃなきゃ意味がない」などという了見で初めたコトも手伝って、思い返すと「それはどうかな?」ということを結構やってました。 とんでもない時間に護摩焚きをするのも如何かと思い、[どうにもならないときは前倒し]と方針を変更してから、縁日以外にも前倒しでドンドン焚いちゃってます。 「なんだかお参りしたくなっちゃった」という時は、縁日の護摩をお選び頂いてお早目にお問い合わせください(次年度分へは手を出しませんので、来年の縁日に合わせて、ということで)。 |
本屋さんに行っては「これは面白そうだ」と思うものを買い求め、買ったそばから読み始めちゃ何が何やら解からくなってしまう。どれも読み途中の本を眺めちゃ「何を読んでたっけか…」などとボンヤリする。 二度、三度と懲りもせず同じことを繰り返しているとほどなく、「あの人は三日坊主だから…」という立派な肩書きがついてまわることとなります。(私がそうです) このような人間にとって、「ご趣味は?」という質問ほど答えに窮するものはありません。というのも、「長い間続けているものでないとあてはまらないんじゃ…」という気がしてならないからです。 逆にいえば、「長いこと続けているものは趣味と見なしていい」ということになるのかもしれません。 故 田中角栄さんの秘書をなさっておられた早坂茂三さんは、何かのインタビューで「趣味は田中角栄」と答えておられます。 この言葉から「それだけの時間を注いだんだろう」と考えることができます。そして、趣味というものは行為のみにあてはまらず、様々なものごとにも向けられるものと位置付けることもできるでしょう。 仏様に手を合わすということをはじめて10年余り。西光寺の本尊さんに仕えはじめて6年となりました。時間の長短は人によりけりでしょうが、もうボチボチ上記のことがらをあてはめて良い時期かもしれません。 「ご趣味は?」 「弘法大師を少し…。最近はお不動さんにこってます。」 ……… 「お便りを出すことです」 と答えることにします。 |